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教会ブログ
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Q.教会には「神は愛なり」という言葉が掲げてありますが、神って愛なんですか?
正確には「Yes」&「No」です。
Q.両方ですか?
そうです。
まずは「No」から、説明いたします。
神様は確かに肉眼では見えないお方です。 だからと言って、「愛」というような抽象的なものではありません。その意味では「No」です。
Q.では「Yes」というのは?
これは神様のご性格、属性のことを言っているんですね。神様のご性格は基本的には「愛」だと言うのです。
でもキリスト教で使う「愛」という言葉は、私たちが普段一般的に使っている恋愛の「愛」などとは違います。また友情とか友愛とも違います。神 の愛は「与える」愛です。恋愛とか友愛などは究極的には「奪う」愛でしかありません。自分の思うように、また願うようにいかなければ豹変する性格を持っています。しかし、神様の愛は究極的に「与える続ける」愛であり、永遠に変わらない性格の愛なのです。
Q.「与え続ける愛」ですか。
確かに恋愛では、愛が転じて憎しみになるとよく言いますね。そして殺意が生じるとか・・ そうです。ですから人間の愛には限界があるんですね。 両親の子どもへの愛には神の愛に似ているところがあります。しかし、悲劇もたくさん起こっています。ですから、神の愛とは神だけが持つ「特別な愛」なのです。
Q.神様が特別な愛をお持ちになるということはよく分かりました。でも又質問ですが、目に見えない神様が特別な愛を持っていたとしても、それが私たちとどう関わりがあるのでしょうか。
おっしゃることはよく分かります。神様は人間の想像をはるかに超えたお方ですから、神様については神様の方から説明していただかないと分かりませんよね。そこで神様は聖書を用いて御自身のことを紹介してくださっているのです。
Q.聖書の登場ですか。
そうです。聖書が完成する前は、神様は直接人間に現れたようです。旧約聖書の時代には神様はしばしば人間に現れました。ただ人間の方はまともに神様を見ることは出来なかったようですが。
Q.神を見た者は死ぬとか・・・
そうなんです。ですから恐ろしくて見ることは出来なかった。もっとも見ようと思ってもまばゆくて見えなかったようですが。
そして、聖書が完成してからは、神様は御言葉を通して御自身の御心を示されるようになったのです。
その聖書の説明によると、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と書かれています。
Q.なんだか難しそうですね。
ですが、ここで諦めると「神の愛」のことが分からなくなりますよ。もう少しの辛抱です。
Q.はい!
神様はひとり子(わが子)を与えるほどに世(私たちの世界)を愛されたのです。
と言っても神様には子どもはいないのですが・・・
Q.神様には子どもがいない?
そうです。「ひとり子」というのはイエス・キリスト様のことですが、イエス様は神様御自身のことなのです。神様は御自身のご計画を遂行するために「子なる神」の領域を設けられたのです。実際にはもう一つの領域があります。それは「聖霊なる神」です。「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」これを三位一体(さんみいったい)の神とい言って、まさに一人三役というところでしょう。ですから、ひとり子をお与えになったほどにということは、御自身の右の手を切り取って、それを必要な人に与える、そこまでの愛ということです。実際には見えない神様が見える肉体を持って現れてくださったのがイエス・キリスト様となります。あのクリスマスが実は神様が人となってこの地上に来てくださったことです。
これは思えば思うほど辛いことだったことが分かります。それというのも、永遠に生きる無限のお方が、しかも全知全能のお方が、有限になり人に仕えたということですから、屈辱以外に何者でもありません。しかもあの十字架で身代わりの壮絶な死を遂げられたのですからその思いは半端ではなかったのです。
Q.それほどまでして人間を愛した・・・
そうです。それは全ての人が滅びないで永遠の命をもって生きて欲しいという神の思いなのです。
Q.神の愛って底知れぬものなのですね。
「神は愛なり」とは「まことの愛を持った神様」という意味なのですね。
Q.教会では罪とか悔い改めとか言いますが、何かいやな気分になりますね。
お気持ちは分かります。しかし、聖書では、人間には罪があり、又その罪を悔い改める必要があると説明されています。ですからこれは神様からの視点です。
Q.神様からの視点といいますと?
聖書で言う罪とは犯罪という意味ではありません。もちろん犯罪人も罪人になりますが、人は神に対して、罪があるというのです。宗教的なSIN(罪)があるのです。そしてこの罪は全ての人にある。しかも生まれたときからこの罪の性質をもっているのだと説明されています。
Q.神様はその罪がお嫌いですか?
もちろんです。これは好き嫌いの問題ではなく、人間を愛する神様が、人間の幸せを願って、この不幸なる状態を気付かせ、解決してあげようとしているのです。
Q.罪を持ったままだとどうなるのですか?
良い質問です。聖書にはこのように記されています。
「罪から来る報酬は死です」
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」
Q.死とさばきが待っている?
そうです。この死は肉体の死ではなく「「魂の死」なのです。第二の死とも言います。
肉体が滅びた後、今度は魂がさばかれるのです。そしてこのさばきはその人に永遠の滅びを宣告するのです。
Q.寿命が来れば肉体は死ぬことは分かります。 しかし、魂の死というのは良く分かりません。
人間は肉体だけで生きているのではありません。魂も生きているのです。しかもこの魂は永遠性を持っている。そしてこの魂の行き場が問題とされているんです。
Q.宗教っぽいですね。
そうです。「肉体が死ねば全てが終わりだ」というのは単純で分かりやすいですが、実に浅い人間理解です。
Q.すみません。終わりだと思っていました。
人間は動物ですが、魂を持つ生き物なのです。この魂が神様との関係で重要な働きをしているのです。神様はそのように人間をお造りになられたのです。
Q.で、その魂が罪を持っていると、永遠のさばきを受けるのですか?
そうです。永遠のさばきとは、譬えると、あなたが一番辛く苦しく嫌なことがあったとしますと、その嫌なことが永遠に続くということなのです。 ですから、神様は早くこの罪を悔い改めてこの問題を解決しなさいと勧めておられるのです。
Q.だいぶ分かって来ました。で、この罪というのはどういうものなのですか?
まず、神様に対しての罪深さということで、まことの父親である神様をないがしろにしているということでしょう。人だってないがしろにされたら怒ってしまいますよね。また「神様の存在を信じない」というのも神様に対して不謹慎極まりない態度でしょう。 それから、犯罪的な罪のある人、これはもう言うまでもありません、人間失格ですから悔い改める必要があります。究極的には人間を愛する神様に対しての罪深さということになります。
Q.つまり全ての人が、神様に悔い改めし、赦していただく必要があるということですね。
そうです。聖書には「もし、罪を犯していないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」と指摘されていますので、神様には全てがお見通しということです。
Q.神様には「降参」、これが一番ですね。
Q.イエス・キリストとは、どういう人ですか?
神のひとり子という立場がありますが、神様ご自身のことです。
神様がご自身について、その一部分を見える形を取って私たちに見せてくださったのがイエスという人で す。
聖書にこう説明されています。
「御子は見えない神のかたちであり、造られた全てのものより先に生まれた方です」
「御子は神の栄光の輝き、又神の本質の完全な現れであり・・・」
「わたしを見た者は、父を見たのです」
ですから、イエス・キリストを見るなら、神様を見たと同じということです。もちろんイエス・キリストが神様の全てを現しているということではありませんが。
Q.その神様の化身であるイエスがキリストになったということは何ですか?
人間が創造されたときに、人間は堕落すると知った神様は、救済の仕方をお考えになられたでしょう。そして御子をその救い主(キリスト)とされたのです。そして、今から約2000年前に時至って人間イエスとなってその姿を現してくださったのです。
Q.クリスマスですね!
そうです。イエス・キリスト様は罪人の身代わりとして死ぬためにお生まれになられたのです。
Q.死ぬためにお生まれになった?
そう、それが神様の人類救済法だったんです。
Q.一般的にはユダヤ人に妬まれて十字架に掛けられたとされていますが・・・
おっしゃる通りです。見せしめの死、それが人類の救いの門を開く方法だったとは誰も想像できなかったのです。さすが神様というところでしょう。
Q.絶望が希望に変化したわけですね。